夜鷹の眼に映る (20分)
2019年版
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落語の登場人物と申しますと、八っつぁん熊さん御隠居さん、人の良いのが勘兵衛さん、
馬鹿で与太郎。なんて事を申します。ま、歳やら仕事やら嫁のいるいないは話によって多
少変わっては来るところもありますが、こういうもんだというのが名前で分かるんです
ね。名前ってのは、便利なもんですね。おっと、しまった。名乗りそびれました。私
は…、ま、いいですかね。本題に行きましょうか。今日はちょっとばかり物語をね、お聞
かせ致しましょう。

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山を幾つも越えた僻遠の地に、石が立てられている。近くに建物が残っているが、人間の
姿はない。かつて此処には村があった。旅人の通り道にもならず、外部の者は一切知らぬ
小さな村だった。冬になれば雪は深々と積もり、家屋から表へ出るのも困難になる。秋に
は収穫を終え、蓄えを作り、暖を取りながら春の訪れを待ち焦がれて生きていく。澄んだ
川には生き物が棲み、それを食料とする生き物が集まった。キョキョキョキョキョキョキ
ョキョ。異国から飛来した夏鳥の声が聞こえる。夜鷹だろうか。今から始まるのは、小さ
な村での静かな営みと企みが交わって生まれた物語。

その夜、男は酒を飲み過ぎた。尿意を催した男は、用を足そうと千鳥足で川へと近付く。
すると一枚の葉が流れていくのが目に入った。緩やかな流れに乗って何処まで行くのか。
水面に顔を出した石に引っ掛かりはしないか、途中で沈みはしないか。興味が湧いて、葉
を追い掛けて歩き始めた。どれだけの時間、歩いただろうか。随分と離れた場所まで来た
事に気付いて、男は後ろを振り返った。明かりは見えない。途中、けもの道を通ったりも
した。思っているよりも相当遠くまで来てしまったのだろう。それでも川を下って来たの
だから、上流を目指せば村には帰れる。そう思っている間に流れていったらしく、川の流
れに目を戻しても葉を見付ける事は出来なかった。代わりに、水面に映る人影が目に入っ
た。どうやら女らしい。何故こんな時間こんな場所に。そう思ったのは一瞬で、男は即座
に自分の過ちに思い至った。下ろした長い髪に、朱色の着物。同じ村の者であれば誰もが
知っている禁忌の存在に、自分は出会ってしまった。

隣村との境に妖怪が出るという話は有名だった。まず初めに、都に一人の女が現れた。男
達を狂わせ、骨抜きにし、やがては命を奪う。それが、飛縁魔。正体は九尾の狐が女に化
けた妖怪であると囁かれ、丙午年の女は男を早死にさせるという迷信から飛縁魔と呼ばれ
る様になった。

男の酔いは一気に冷めた。震えの止まらない理由は寒さのせいか、怯えのせいか、両方な
のかもしれない。いずれにせよ、足は根を張った樹木の如く、もはや走る為に使うのは無
理な話だった。それどころか、頭のてっぺんから爪の先まで体の全てが自分のものではな
くなった様な感覚。飛縁魔を噂で耳にした時には、いい女なら一度は会ってみたいと思え
たが、実際こうなると自分の愚かさを痛感した。やがて雲が月を隠し、辺りは闇に包まれ
た。見えない。ただ、近付いてくる足音が聞こえる。男の呼吸が乱れる。その僅かな時間
は、心臓を破裂させるのに充分なだけの長さがあった。いっそ死ねば楽になれると男が考
えている間に雲は通り過ぎて、正面に近付いた飛縁魔と目が合った。綺麗だ。自分の口が
その言葉を放ったと自覚したのは、暫くしてからだった。まだ体は思い通りに動かせな
い。余りにも美しい顔をした飛縁魔に、男は陶酔しながら失神した。

目覚めた男は村に戻り、飛縁魔が如何に美しかったか、あれだけの美人を前に一目惚れし
ない者はいないと声高に語った。男達は興味を持ち、女達は蔑視を向けた。村人はひとま
ず命を取られずに戻って何よりとみな安心していたものの、男は飛縁魔にもう一度会いた
いと夜な夜な村を抜け出しては歩き回る様になる。ろくに寝もせず食事も喉を通らず畑仕
事を続ければ、当然みるみる内に痩せ細っていく。やがて男はいつでも心此処に在らずの
状態になり、白昼仕事を抜け出して飛縁魔を探し始めた。いよいよ村人達も心配になって
止めに掛かるが、男は聞く耳を持たない。その末、覚束ない足取りで川際を下る途中に誤
って転落、溺死した姿が見付かる。これを以って、男女問わず飛縁魔は恐怖の対象とな
り、口に出すのも憚られる名前となった。ただ一人の男を除いて。

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「と、まぁ、ここまでが導入部分だ」
『へぇ、これがお師匠の物語』
「お前ね、今の話の中に俺が出て来たか。飛縁魔の物語だ」
『今、物を語ってくれたのはお師匠なのに?』
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