やおらに縺れる糸先は
私:(天井の片隅に、黒いものがうごめいている。)
私:(蜘蛛だ。)
私:(隅の方で小さく、小さく巣を張っている。)
私:(やがて、動きを止めた。)
私:(死んでしまったかのように動かない。)
私:(お前の目には、私はどのように映っている?)
私:(私とお前の生きる世界は、まるで違うだろうが、食事を摂らねば死んでしまうのは同じだろう。)
私:(餌を待っているのか?)
私:(そんな隅っこで、ただずっと……。)
私:(哀れじゃないか。つつましいにも、程がある。)
私:(だが、その幾何(きか)模様の中心に浮かぶ黒点は、得も言われぬ美しさがあった。)
鈴:あなた。
私:何だ。
鈴:眠れないのですか?
私:いや、少し考え事をしてただけだ。
鈴:お仕事のこと?
私:ああ、まぁ、そうだな。
鈴:余計なお世話かもしれませんが、考えすぎはお体に障りますよ。
鈴:タバコの数も、増えているでしょう。
私:そうか?
私:悪いな、気を付けるよ。
鈴:健康を損なえば、出来る仕事も出来ません。
私:うん。お前の言う通りだ。
鈴:あなたは、体が強い方ではないのですから……。
私:(鈴(すず)は、いつも正しいことを言う。)
私:(品行方正を絵に描いたような妻だ。)
私:(表と裏、光と影、正と邪。)
私:(あらゆる二面性の渦巻く世間で、彼女の選ぶ道は、往々にして前者。)
私:(いや、そもそも、選んでいる感覚もないのだろう。)
私:(私のような独りよがりな人間には、理想と呼ぶべき女性だ。)
私:……誰の理想だろうな。
鈴:え?
私:何でもない。
私:寝ようか。
鈴:はい。
0:明くる日。
0:机に向かい、執筆している「私」。
0:やがて顔を上げ、目頭を押さえる。
鈴:珈琲(コーヒー)を淹れました。
私:ありがとう。
0:「私」は珈琲を一口飲む。
鈴:ここのところ、忙しそうですね。
私:締め切りが近いからね。
私:最後の追い込みだ。
鈴:無理はいけませんよ。
私:わかってる。
私:丁度、一区切りついたところだよ。
0:伸びをし、タバコの箱を取り出す。
0:しかし、中は空だ。
私:……少し、出掛けてくる。
鈴:程々にしてくださいね。
私:ん?
鈴:体に毒ですよ。
私:……ああ。
0:部屋を出ていく時、鈴の目が見れなかった。
私:(行きつけのタバコ屋がある。)
私:(歩くには近くもなく、遠くもない距離。)
私:(見慣れた風景の往復だが、嫌いではない。)
綴:あら、いらっしゃい、センセ。
私:こんにちは。
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